私の絵はとてもフォトジェニックで、網膜的な作品だと思います。
けれども本当に美しい物は網膜的なものではないとよく考えます。
私が最も美しいと思うもの。それはポエジーと表現されるものではないかと。ポエムとは違う。ポエムは意識的に作り出すものですが、私にとってポエジーとは無意識が作り出すものなのです。
しかしだからといって、私は私の網膜的な作品作りを変えることはできません。
なぜなら、意識的にポエジーを求めてしまう時点で、私の欲しいものは手に入らなくなってしまうと感じるからです。
私がお花の絵を描き始めたのは、人に見せる為ではなく自分の為、自分が絵を描くよろこびを手に入れる為でした。お花を描こうと思ったのは、それが私にとって嘘のない、ひとつ残った言葉だったからです。網膜的な作品になることは分かっていました。しかし、そのくだらなさも私の一部であると受け入れようと思ったのでした。けれども、今の私は私の作品が、網膜的だと否定されるように感じ、その度に悲しい気持ちになる時があります。
それは私の最初の目的とは矛盾した感情でした。
私は結局、人に褒められたい、賞賛されたいために絵を描いていたのでしょうか。
もし、そうだとしたら私の網膜的な作品はとてもいやらしく、醜いものであるように感じます。
私は私も動物だから、私の感情に正直でありたい。と、そうDMに書きました。そう、ありたい。けれどもそうあれていない。それが今の私です。
網膜的であることを肯定しようとした、見せる為の絵を否定しようとした、けれども結局できなかった。どちらもできていなかった。それが今の私なのかもしれません。
けれども本当に美しい物は網膜的なものではないとよく考えます。
私が最も美しいと思うもの。それはポエジーと表現されるものではないかと。ポエムとは違う。ポエムは意識的に作り出すものですが、私にとってポエジーとは無意識が作り出すものなのです。
しかしだからといって、私は私の網膜的な作品作りを変えることはできません。
なぜなら、意識的にポエジーを求めてしまう時点で、私の欲しいものは手に入らなくなってしまうと感じるからです。
私がお花の絵を描き始めたのは、人に見せる為ではなく自分の為、自分が絵を描くよろこびを手に入れる為でした。お花を描こうと思ったのは、それが私にとって嘘のない、ひとつ残った言葉だったからです。網膜的な作品になることは分かっていました。しかし、そのくだらなさも私の一部であると受け入れようと思ったのでした。けれども、今の私は私の作品が、網膜的だと否定されるように感じ、その度に悲しい気持ちになる時があります。
それは私の最初の目的とは矛盾した感情でした。
私は結局、人に褒められたい、賞賛されたいために絵を描いていたのでしょうか。
もし、そうだとしたら私の網膜的な作品はとてもいやらしく、醜いものであるように感じます。
私は私も動物だから、私の感情に正直でありたい。と、そうDMに書きました。そう、ありたい。けれどもそうあれていない。それが今の私です。
網膜的であることを肯定しようとした、見せる為の絵を否定しようとした、けれども結局できなかった。どちらもできていなかった。それが今の私なのかもしれません。