古いお経に天女散華というお話があります。天女が散らした花を振り払おうとする舎利弗と天女の問答です。花は舎利弗の肩について離れません。花で着飾ることは戒律に背くことだと必死になる舎利弗に対し、天女は花そのものには善も悪もない。自然物であるそこに自分で想念を作っているから汚らわしいのだと説きました。対象をどう見るかによって、その意味はいくらでも変わってきます。私たちは常に主観で考え、それは必ず想念によって支配されています。
私は作品を人が作った自然物であると考えることがあります。作り手の主観や想念も、作品として提出された時一度その意味は失われ自然物になる。そこに鑑賞者が意味を見出していくことで作品は価値を持っていくのではないかと。ある人にとってはゴミであり、同時にある人にとっては至上の宝石である。作品を作るのは作家の主観や想念ですが、それとは違う次元でまた、鑑賞者の中に作品は作られていくのではないでしょうか。そして同時に鑑賞者自身の主観や想念さえも変えていくものなのではないかと。
だからこそ、私は表現における自由は、絶対に守られるべきものだと思うのです。現在日本における表現の自由は少しずつ奪われていると感じます。公益性と言う曖昧な言葉を建前に権力が芸術に介入している現状があります。表現が無限に自由で良いのか。様々な考えがあると思います。ある作品を見て嫌な気持ちになること、私もあります。しかし作品を見る目的が心地良さだけになってしまっても良いのでしょうか。作品を見る事はむしろその異常さによって、自分の価値観が揺さぶられること、思考を促される事に意味があるのではないかと私は考えます。芸術は正しさの基準ではありません。多数決によってその価値が決まるものでもありません。本来芸術は倫理を超えたところに価値が在り、時間を超えて、その時々で人々の心の中に価値が見出されていくものではないでしょうか。様々な立場、考え方、表現が現在という局所的な時間の中で、権力によって否定される事があってはなりません。それは思考の多様性を奪う行為です。誰に対しても、どんな考え方に対しても開かれ、平等であること。その最期の砦が芸術であると私は考えます。
裏返しのお花の絵は、権力によって奪われる思考の多様性を補うための表現です。
今村文
2019年10月
*安曇野市での展覧会『交わるアート』展にて展示している「見えない庭の外の庭」という作品についての文章です。展示場所にも掲載させて頂いております。
『交わるアート展』
2019.10.22~11.4
10.23(火)、10.30(月)休館
安曇野市穂高交流学習センターみらい 展示ギャラリー
〒399-8303 長野県安曇野市穂高6765-2
主催:安曇野市ミュージアム活性化事業実行委員会事務局
tel 0263-71-2463
https://www.city.azumino.nagano.jp/site/mirai/37535.htmlhttp://www.city.azumino.nagano.jp/site/mirai/