今村文  Fumi Imamura
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さくひんについて
​
さくひんについて考えていることを書いています。時々変わります。




『私の絵について』

おはなのえです。

​
『花とこころ』

無音の風が吹いています。その中にオシロイバナが僅かに揺れながらあります。草むらの原色を想像してください。それは美しいでしょうか。別に難しいことを聞いているのじゃありません。なぜあなたは今少し疑ったのですか?あなたは今急いでいるのかもしれない。疲れているのかもしれない。あなたは行く人です。通り過ぎる人。あなたは見るともなしに見る。ああ咲いていると、一瞬を花の色に費やした。それを美しいと思ったなら。それはそれで正しいのです。それは確かに美しいのです。花のあるということ、それは同時にそこに花を見るあなたがいるということ。もしあなたが花を見て美しいと思ったのなら、それは花が美しいのではい。花を映したあなたのこころが美しいのだ。






『お花のドローイングについて考えること』

植物のドローイングを描くとき、私はいつも身体のことを意識しています。
植物とは、脳のない身体ではありませんか。

脳のない身体
それはつまり
言葉のない身体です

脳=言葉=形象

これは私の考えるひとつの方程式です。

意味を介さずお経を詠む。ただただ詠む。
呪文は意味を成さずとも事象に変化を与えます。


脳のない身体と、呪文とは私の中で符合しました。
その身体にもはや意味がある。
意思とは関係ない働きがある。

​その言葉は言葉にあって言葉にあらず。
​形として意味をなす。








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