私は庭について考えます。作品を作ること、展示をすること、それぞれは庭を作る事に似ている。と思うからです。また私は庭を可変な個人であり、それぞれで境界を意識することであると考えます。庭という意識は他者との境界であり、とても強固なものです。庭を作ることよって私は自己を知り、他者と関係する。しかし、多くの苦しみは庭というその境界がある事によっても生まれていると感じます。身体は近くにあってもその人のことを遠くに感じることがあります。また、会ったことも無いのに、その人のことを自分の内側に感じることがあります。遠いのに近い、近いのに遠い。ということがある。その距離はお互いに同じではないけれど、なんとなくそこが境界になっている。
庭というのは意識です。どんなに私が庭として囲ったとしても、そこに住む植物や虫には境界などは無い。隣あって咲く花は意識の境界によって隔てられてはいるが、自分の庭の花は隣にも咲き、隣の花を飛んでいた虫もやってくる。花や虫が庭を越えて行き交うほど、境界は曖昧になってゆくのではないだろうか。花や虫を庭という意識が創造する現象であるとしたなら。想像して創造しなければ、庭には花も咲かず、虫も飛ばない。他者と私は相互に同じではない。私は他者にはなれないし、他者は私の心を知ることはできない。その当たり前のことを、受け入れ、想像することがコミュニケーションなのではないか。庭の境界は、無くすことはできないけれども可変であり、共有することもできる。「人間の真実の生活とは、常にただこの個の対立の生活の中に存る」と安吾は言います。
私は理解したい。相互不理解だとしても、他者を理解したいと願います。庭という境界を曖昧にすること。花や虫によって常に干渉し合うこと。それは他者との境界を越える為の一つのコミュニケーションではないだろうか。私は庭で花を育てて虫を呼びたい。例え独りよがりでも、理解するために。私の庭の花は全部あなたのものでもあるのだ。