お風呂には蟲が沢山出るんです。
私の住んでるお家はなかなかに古いお家なので、蟲の通り道が沢山あるらしく、どこからともなく色々な蟲達がきて心地良い住処にしています。夏場は電灯つけたらまず割り箸持って蛞蝓チェックです。石鹸と一緒に掴んだりしたらすごいへこみます。ヒルとかハサミムシもいます。でもゲジゲジは油虫を食べてくれるので逃します。水がある場所、あった場所というのはどうしても生き物が集まってくるようです。
銭湯という場所について、特に湯のないお風呂という場所について、そんなことから私が連想したのは水の無い池でした。そこには多分色んな蟲がいて、魚の死骸や水草の腐ったのがあるんだと思います。腐った水草の代わりに紙のお花、それから紙の蟲。水の無い池がイメージですが、私は寧ろ水を満たすように水の無い池を表現したいと考えています。
花や蟲には自我がありません。
けれども心はあります。科学的には花にも蟲にも感情は無いのだそうです。感情の無い者に心という存在を立証するのは難しいのかもしれませんが、私はあると感じています。私の思う心は頭蓋骨の中にあるものではないからです。心はどこの中にあるのでもなく、水や大気のように世界を満たいしている。そして私は胸の辺りでそれを感受しているだけだと。誰かに傷つけられた時、誰かを好きになった時、頭ってあんまり働いていないんじゃないでしょうか。喧嘩は拳でするものだし、恋は臓腑でするものだ。なんて。付属品みたいな頭。だから脳脊椎の無い花や蟲にもその器官は備わっていると思うのです。寧ろ自我のない彼らはとても純粋な、心だけの状態なんじゃないか。紫陽花の中で眠る蜘蛛とか、お風呂場で交尾する蛞蝓とか、夕暮れの蚊柱とか、見るとき私は憧れを感じます。私にとって花や蟲は心を感受して光る白熱灯のようなものです。その心の光で、お湯の代わりに銭湯の中を満たせたら、と思います。
Flowing out
竹の湯
山梨県甲府市中央5 丁目2-5)
2018年9月29日(金)~10月2日(月)11:00-17:00
私の住んでるお家はなかなかに古いお家なので、蟲の通り道が沢山あるらしく、どこからともなく色々な蟲達がきて心地良い住処にしています。夏場は電灯つけたらまず割り箸持って蛞蝓チェックです。石鹸と一緒に掴んだりしたらすごいへこみます。ヒルとかハサミムシもいます。でもゲジゲジは油虫を食べてくれるので逃します。水がある場所、あった場所というのはどうしても生き物が集まってくるようです。
銭湯という場所について、特に湯のないお風呂という場所について、そんなことから私が連想したのは水の無い池でした。そこには多分色んな蟲がいて、魚の死骸や水草の腐ったのがあるんだと思います。腐った水草の代わりに紙のお花、それから紙の蟲。水の無い池がイメージですが、私は寧ろ水を満たすように水の無い池を表現したいと考えています。
花や蟲には自我がありません。
けれども心はあります。科学的には花にも蟲にも感情は無いのだそうです。感情の無い者に心という存在を立証するのは難しいのかもしれませんが、私はあると感じています。私の思う心は頭蓋骨の中にあるものではないからです。心はどこの中にあるのでもなく、水や大気のように世界を満たいしている。そして私は胸の辺りでそれを感受しているだけだと。誰かに傷つけられた時、誰かを好きになった時、頭ってあんまり働いていないんじゃないでしょうか。喧嘩は拳でするものだし、恋は臓腑でするものだ。なんて。付属品みたいな頭。だから脳脊椎の無い花や蟲にもその器官は備わっていると思うのです。寧ろ自我のない彼らはとても純粋な、心だけの状態なんじゃないか。紫陽花の中で眠る蜘蛛とか、お風呂場で交尾する蛞蝓とか、夕暮れの蚊柱とか、見るとき私は憧れを感じます。私にとって花や蟲は心を感受して光る白熱灯のようなものです。その心の光で、お湯の代わりに銭湯の中を満たせたら、と思います。
Flowing out
竹の湯
山梨県甲府市中央5 丁目2-5)
2018年9月29日(金)~10月2日(月)11:00-17:00