おばあちゃんの椿咲きました。
白鳥の羽根のように重なった花びらの大きな椿。
白鳥の羽根のように重なった花びらの大きな椿。
個展それから黒部市美術館での展示終わりました。遠いところから来てくださった方もいてうれしかったです。ありがとうございました。
この1月から3月は愛知、富山、金沢、東京と立て続けに展覧会とワークショップとしていまして、気付けば私は旅人でした。行く先行く土地懐かしい人や友人に会いました。10年前は近くにいても知らなかった人に今になって出会うこともありました。ご縁というのでしょうか。沢山の人に会い沢山の物語をききました。悲しい話も温かい話もあって、私は私の中がその沢山の物語で作り変えられてゆくような、不思議な気持ちになっていました。そう、なんというか私の心はゆらゆら揺らめく水面で、その上に物語が映り込んでは消えてゆくような。人びとの物語で私の心が作られていく。それは旅人である、そこに真に存在していない者という立場による現象なのかもしれません。
しかし本来個人というのは固い不変の彫像ではなく、刻々と移ろいゆく不定形なものなのではないでしょうか。
旅を終えた今もなお私の感情は沢山の物語によって生まれていると感じます。 それは私個人の物語ではなく私の側で語られた彼や彼女の物語なのかもしれない。私の知らない誰かの話。他人の話。私が耳を傾ける間に私の中に染み込んでいた。紅茶が水を飴色に染めるように、確実に。そんな事を考えていると、私の心や感情というものも本当に私のものではないような気がしてくるのでした。
この1月から3月は愛知、富山、金沢、東京と立て続けに展覧会とワークショップとしていまして、気付けば私は旅人でした。行く先行く土地懐かしい人や友人に会いました。10年前は近くにいても知らなかった人に今になって出会うこともありました。ご縁というのでしょうか。沢山の人に会い沢山の物語をききました。悲しい話も温かい話もあって、私は私の中がその沢山の物語で作り変えられてゆくような、不思議な気持ちになっていました。そう、なんというか私の心はゆらゆら揺らめく水面で、その上に物語が映り込んでは消えてゆくような。人びとの物語で私の心が作られていく。それは旅人である、そこに真に存在していない者という立場による現象なのかもしれません。
しかし本来個人というのは固い不変の彫像ではなく、刻々と移ろいゆく不定形なものなのではないでしょうか。
旅を終えた今もなお私の感情は沢山の物語によって生まれていると感じます。 それは私個人の物語ではなく私の側で語られた彼や彼女の物語なのかもしれない。私の知らない誰かの話。他人の話。私が耳を傾ける間に私の中に染み込んでいた。紅茶が水を飴色に染めるように、確実に。そんな事を考えていると、私の心や感情というものも本当に私のものではないような気がしてくるのでした。